消費されてばかりのグラビアを人生と呼ぶには、私はまだ未熟者である。
はじめまして。はてなブログをやってみたい。なんて考えていたけれど、特に書きたい事が浮かばなくて。
最近良い話題があったのでやっと書いてみようかなと思い今です。
私の人生というのは、私からしてみれば酷くつまらないもの。
だけど人によっては面白いもので、その中のひとつが「グラビア」という仕事をしていた事かもしれない。
あれは確か小学生の頃。モーニング娘。に憧れた私はアイドルになりたかった。
ド田舎の中学生の頃には電車もなくなったような街で育った私にとってアイドルになる方法なんて分からなかったのだけれども、いつだったかな。モー娘。のオーディションが開催される事になった。
憧れのモー娘。になれるかもしれない。そう思ったけれど当時の必須項目であったビデオカメラが我が家にはなかった。当然親にねだれるわけもなく、歌もダンスも習ったことのない私にとって初めての絶望。
だけど確かにみた一筋の光によって私は「オーディション」という存在を知る。
それから私はオーディションってやつに夢中になった。今もあるか分からないけれどオーディションをまとめた雑誌なんかもあった。
聞いたこともないような事務所に自撮りを送っては即日面接のお知らせが来たりして。バカな私は浮かれたりもした。(当然田舎なので面接に行けない)
大なり小なりオーディションを受けたりもして、高校生の頃には母も時々は賛成してくれるようになった。
偶然にも姉が東京に出ていたので、どんどん私は「アイドルになる」という夢だけが広がっていった。その間に歌もダンスもやっていないのに。やっていないくせに私にはどこからともなく自信が沸いて、頭の中はきらきらな衣装を着る自分がいた。
初めて合格したのは携帯配信のグラビア(とそれに伴いDVDを出すってやつ)だった。
無所属だった私にはプロデューサーと女性のスタッフがついて撮影の度にお世話をしてくれるようになった。ただ、プロデューサーがなんかウザくて。撮影の度に事務所に呼ばれて今後の話し合いをしたりしたけれど、出されたお茶に薬が入っていたらどうしよう。って不安を抱いたりもした。
失礼な高校生だったと思う。私の価値を見出してくれてた相手に無礼な態度を取って。でも、そのよく分からない不信感は「本物」だった。
ある日そのプロデューサーが週刊誌に載ったんだもの。
ここが第二の絶望かな。
それから私はいつの間にか「アイドルになりたい」から「とにかく高校を卒業するまでに事務所に入らなければならない」という焦燥感に襲われる。
人生イージーモード。運よく大手の事務所が決まった。毎日バラエティに出ている人がたくさんいて、クラスメイトにも自慢して回ったのをよく覚えている。
モー娘。に入れなかったけれど、それでも私を認めてくれる事務所があった。
この時はまだ純粋だった私は「私自身」に価値があると信じてやまなかった。顔も悪くないしスタイルも悪くない。頭だって馬鹿ではない気もする。
だけど三十歳を過ぎた私が当時の状況を俯瞰してみれば、彼らが私を選んだ理由は「Hカップの未成年」だろう。
すぐに撮影会って仕事が決まった。しかも一緒に参加したのはバラエティでも見たことがある人で、家も近くて、嬉しくてたまらなかった。
「人に撮られる練習だよ」って事務所の人は言っていたけれど、楽屋では「最悪の仕事」ってみんな口々に言ったりして。
仕事はいつの間にか撮影会ばかりになった。一回の出演料は一万円。それ以外の仕事はなくてマネージャーに何度かけあっても「仕事ってのは順番だから」の一点張り。
だから私は思いきって事務所をやめる事にした。
次に入ったのはとても小さな事務所。そこでも巨乳が役に立った。なんの苦労もなかったし、マネージャーと毎日たくさんの出版社やDVDの会社に挨拶回りにいった。
その先々でクライアントは言う「どれくらい小さな水着を着れますか?」
マネージャーはそれに対して真摯に受け答えした。
当時着エロと呼ばれる「Tバック」を履けるならすぐにDVDを出してあげるという大手メーカーもいたけれどマネージャーはそんな事させられないと、すぐに席を立った。
私の顔はロリではない。どちらかと言えばアダルティなのでメーカーとしてもHカップのアダルティな未成年を脱がせたいとう気持ちは分からんでもない。
撮影会にでる時も水着や衣装(全部私物)の細かいチェックもあった。とにかくマネージャーはグラビアをする上で慎重だった。
だけど次第に不満は積もっていく。二年くらいいて仕事はエキストラかグラビア。
私はいつだって水着だった。さすがに二十代を越えたあたりから「自分の価値」というものに悩むようになった。
一向にDVDを出す事はできず、名もない仕事ばかりをこなす日々。
声優の卵をしていた友人は「仕事があるだけマシ」と言っていたけれど、私は嫌で仕方がなかった。
撮影会の途中「エロいね」と言われる事に嫌悪感を抱き始めたのもこの頃だろう。
1対1(もちろんスタッフが大勢いるスタジオでやるので本当に1対1ではない。1時間1人のファンの目の前にいるって撮影だ)も苦痛でならなかった。
少しでも対応を間違えれば相手は機嫌を損ねるし、かと言って甘やかせば他のオタクと比べる。二十代前半の私はファン自身がお互いに優劣をつける事無く、私にカメラを向けている間は一番のファンだと勘違いさせられるかを必死で考えていた。
そんな時とあるアイドルと飲む機会があった。たまたま知り合って話す機会があって。
その晩私は朝まで泣いた。彼女が穢れもなく美しかったから。
私は目の前にいる数人に必死になっているのに、彼女は何千何万の人の前に立っている。私は泥臭い活動だって、醜くて恥ずかしくて惨めだった。
「男の人の前で水着になれるなんてすごいよ。私は尊敬する」
彼女の敬意というなの軽蔑とも取れるナイフは私を深く突き刺した。
私はいつから平気になったのだろう…。感覚がマヒして、いつの間にか水着になる事に恥じらいを感じなくなっていた。
年を重ねた私は次第に「自分は消費されている」と感じるようになった。
ある日のTwitterのリプでは私の写真に射精する動画が送られてくる事もあった。私の活動をしらない人間が、私の自撮りに「抱きたい」と送ってくる。
マネージャーが必死に守ってくれていた偶像が少しずつ崩壊していく音がした。
だから私は「消費」される日々から逃げ出したくなった。
どうにかして自分の人生を誇らしいものにしたかった。グラビアをやめて裏方に入ろうとしたのは二十代後半。
それからたくさんの企画を考えた。いろんな人とプロジェクトを動かそうと必死に走り回った。賛同してくれる人も多く、私はアイドルのプロデュースや、女の子が誇れるグラビアの展開(世の中には不思議な事に脱ぐのが好きな子もいる。思えば私もその類だ)
消費される人生から創造する世界へ。
だけど私の思い描いていた企画を詰めれば詰めるほど、理想とは何かを思い悩むように、考えるようになった。
結局のところ確かに私は「消費」される事はなくなるだろう。しかし私が動けば誰かが消費されるかもしれない。それは生贄と同じ。
私がやろうとしている事は果たして「消費」から逃げられているのだろうか?
グラビアをなくそうと声を上げた殿上人の気持ちはよく分かる。
どれだけあがいたとてこの仕事は対男性になるからだ。服を脱ぐとはそういう事である。どれだけ女性向けにしてもついてくる問題だ。
もちろん男性の中に「芸術」と呼んでくれる人もたくさんいる。だけどその男性たちは、例えばananの上半身裸の男性を見て同じ気持ちを抱き、撮影してみたいと思うだろうか。
その根本には「身体のつくりが好みと近い」という本来の人間がもつ欲求が不随しているように感じる。
ある画家の絵にはシンパシーを感じるが、ある画家の絵からは感じない。そんな簡単な話でいいはずなのに、いつの間にか私は難しく考えるようになった。
これが年を重ねて頭が固くなるということだろうか。
男性が芸能活動をする上で「グラビア」という仕事が選択肢にないことを羨ましくも感じる日は確かにあった。
女性だから出来る特権は時に、誰かを深く傷つける。
だからこそマネージャーもファンの人も私を注意深く守ったうえで接してくれていた。
心地よい時間があったもの確かだ。
私は今完全に芸能界という場所から離れている。
時折インターネットで水着姿をおしみなく出している女性を目にすることがあるが
「若いっていいなあ」と俯瞰している。
あの頃の自分を見て「グラビア」って仕事に誇りを持っていたか?と問われるとして
答えはNOだ。きっとこれからも私はグラビアをやっていた事を隠し続ける。
何を持ってして私はあの頃に誇りを持てるだろうか。
きっとその答えが見つかった時やっと「消費」という概念から抜け出せる気がする。
こうして私はまた忘れかけていた過去を思い出し、答えのない疑問に時間を費やすのだった。